以前私のバンド歴でも書きましたが、昔やっていたバンドについて書いてみたいと思います。
二十歳に加入したのがウォーターゲートというバンドでした。
ちなみにまだ解散したつもりはありません。
ウォーターゲート、バンド名の由来
ウォーターゲートとは、Y 君とM君か釣りをしているときに思い付いた名前だそうです。
二人がぼんやりと釣りをしていて、ふと水門を見つけました。
「そういえば水門って英語でなんて言うんだっけ?」
「ウォーターゲート!」
「ウォーターゲート!それいいね!」
というわけでウォーターゲートになったそうです。若いですねー。
ウォーターゲートの成り立ち
もともと同級生のギターのY君とボーカルのM君が始めたバンドのようです。
そしてドラムスには同い年のS君が参戦していました。
もともと私がベースで参加する前は女性のベーシストがいました。
初期の名バラード「虫かご」はこの女性ベーシストが書いた詞をもとに、Y君がメロディをつけたものです。
最初は歌詞をちゃかしてバラード調のメロディをつけたのだそうです。
それが初期の人気曲になりました。
私が加入した当初はこの曲位しかオリジナルはありませんでしたね。
なのでウォーターゲートに加入して最初に覚えたのがこの「虫かご」です。
後にこの女性がバンドを辞めて、私に白羽の矢がたちました。
Y君との久しぶりの再会
Y君とは、中学以来、会っていませんでした。
同じ剣道部に入っていました。
中学のころ、母の長渕剛のライブCDを、Y 君に貸したことがあります。
最初はあまり長渕剛を聴きたがっていませんでしたが、聴いたら好きになったようです。
もしかしたら、彼がギターを始めたきっかけは私かも知れませんね。
私は二十歳の頃、仕事を始めたばかりで、忙しくも充実した日々を過ごしていました。
そんなある日。Y君から電話がかかってきたのでした。
電話に出てみると「もしもしオリ、今バンドをやっているんだけど、ベースが辞めちゃったんで、ちょっと弾いてくれない?」とのこと。
Y君とは、実に6年ぶりの会話でした。
事務所をスタジオ日替わりに月単位で借りていた
当時ウォーターゲートは他の2バンドと共に空き事務所を借りていました。
月額一人3000円くらいだったかな?
そこをスタジオがわりに使っていたのです。
もちろん防音などはありません。
近所から苦情がしょっちゅうでしたね。
私たちも若かったので、苦情を言われると、さらにボリュームを上げたりしていました。
まあ青春でしたね。
その事務所で色々な人に出会いました。
この出会いが今も続く人間関係となっています。
ウォーターゲートの正式メンバーに
私は当時、ヘルプでウォーターゲートに加入している、と認識していました。
しかしある時、Y君に「オリもう正式メンバーだよ?」と言われました。
というわけでなんとなく正式メンバーになりました。
スリーピースバンドになった訳
当時まだM君というボーカルがいました。
しかし前の女性ベーシストが抜け、私が加入して、ウォーターゲートの音楽性も変わりました。
具体的にはロック色が強くなったというか、激しくなったのです。
そんなバンドに違和感を感じたのか、ボーカルのM 君が辞めました。
そこでウォーターゲートとしてはボーカルを募集しはじめます。
人伝だったか、楽器屋さんの紹介か忘れました。
とあるボーカリストが加入しました。
名前は忘れましたね。
その人が色々と曲を作ってきました。
でもね、曲調がどうも合わないというか、レゲエとか作ってくるんですよね。
そんな感じでそのボーカリストとの間にすきま風が吹きはじめました。
ある時、全メンバーが練習時間に遅刻していくと、そのボーカリストはやる気を無くして辞めていきました。
そんなこんなで結局スリーピースのバンドになりました。
ボーカルはY君がメインで私がサブで歌いました。
ベースを弾きながら歌うのは苦労しました。
でもコツというか、分解しながらすこしづつ練習したら歌えるようになりました。
ちなみに歌は下手です。
当時Hi-STANDARDが流行っていました。
彼らの影響でスリーピースになった訳ではありません。
当時はHi-STANDARDをほとんど聴いていませんでしたから。
ウォーターゲートの曲作り
曲作りはほとんどジャムセッションのような形で作っていました。
この3人のメンバーは音で会話をするのが大好きでした。
誰かが何かを演奏し始めると、必ず誰かが合わせてきます。
自然とジャムが始まるのです。
またY君が曲を作って来ることもありました。
私も作ったし、ドラムのS君も一曲作ってきましたね。
そんな感じで曲を作っていたのです。
また、リフのモチーフを作ってきて、メンバーで練っていくこともありました。
初めは曲が少なかったので、YELLOW MONKEYのカバーもやっていました。
初めてのライブ
初めてのライブはおそらく、パティオというショッピングモールの二階だったと思います。
当時上越市にはまともなライブハウスがありませんでした。
なので空き店舗等を借りて、ビールケースで上げ底して、そこにコンパネを貼った、手作りのステージでしたね。
コンパネステージとか言っていました。
ふなむし(後のるんぺんに会う)
このころ、「ふなむし」というバンドに出会いました。
今は「るんぺん」というバンドになっています。
当時彼らは高校生でした。
面白い連中だな、というのが第一印象です。
でも音楽を聴いたらぶっ飛びましたね。
素晴らしいギターリフ。格好いい演奏。
ギターのN君のセンスが冴え渡っていました。
今はメンバーチェンジして、るんぺんという名前で活動しています。
ファッションセンスゼロ!だから上半身裸でライブ!
当時我々のバンドはファッションセンスゼロでした。
バンド衣装といっても、何を着ればいいか、全くわかりません。
センス悪いし、服屋さんにもほとんど行きませんでした。
UNIQLOも地元にはありませんし、UNIQLOの服も今と違って格好悪かったですしね。
でも他のバンドと違う個性を出したい。
そんな時にY君が始めたんだと思います。
上半身裸になって気合い入れようということになりました。
正直恥ずかしかったですね。
そのあとも脱いだり、脱がなかったりでした。
ただし、本当に服のセンスがない。
服を着てライブなんかカッコ悪くて出来ません。
だんだんと裸でライブが定着していきました。
最終的には裸のバンド、ということで少しは話題になったかと思います。
他の地域に遠征したときに、「上越の裸族」と言われましたから。
ページャーユーが出来た!
そんなことを続けていたときに、PAをやってくれていた電気屋さんにライブハウス作ってくださいよー、と言っていました。
そしてそれが本当にライブハウスに繋がっていくのです。
その時に出来たのがライブハウス、ページャーユーです。
そしてそこが私たちの本拠地になっていくのでした。
ページャーユーが出来てから、ウォーターゲートはさらに進化した気がします。
徐々に上越のバンドシーンが出来てきました。
もちろんその前の世代にもバンドシーンはありました。
あくまでも私たちの世代のバンドシーンという意味です。
初めてのCD
ページャーユーができた頃かな?ライブ フラッシュバルブというイベントをやり始めました。
ちなみにフラッシュバルブとは、水洗トイレの水を流すシステムのことです。
なんでライブ フラッシュバルブになったかというと、ただ単に響きがよかったからだそうです。
このY君プロデュースのイベントが名物イベントになっていきます。
徐々に県外でもライブをするようになる
そして地道に活動し、Y君のプロデュース能力もあって、徐々に知名度があがってきました。
上越にウォーターゲートあり!という感じになってきましたね。
長野のジャンクボックスや、新潟のジャンクボックスミニでライブをやりました。
お客さんの反応はいまいちでした。
やっぱり得体の知れないバンドのライブなど誰も真剣に見ません。
その点、今はTwitterなどで繋がれるので、いい時代です。
あらかじめ予習が出来ます。
プロのライブだって、CDを聴き込んでいった方が楽しめます。
そういう意味じゃ、YouTubeなどで音源を公開するのは良いことだと個人的には思います。
長くなったので、この続きはまた今度!